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露土戦争 (1787年) : ミニ英和和英辞書
露土戦争 (1787年)[ろとせんそう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ろしあ, つゆ]
 1. Russia 2.Dew
: [つち]
 【名詞】 1. earth 2. soil 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

露土戦争 (1787年) ( リダイレクト:露土戦争 (1787年-1791年) ) : ウィキペディア日本語版
露土戦争 (1787年-1791年)[ろとせんそう]

露土戦争(ろとせんそう、、、)は、1787年8月(ユリウス暦・グレゴリオ暦とも)から露暦(ユリウス暦1791年12月(西暦(グレゴリオ暦1792年1月))までつづいたロシア帝国オスマン帝国のあいだの戦争。一般的には「第二次露土戦争」と称されることが多いが、ロシア・トルコ間では何度も戦争が起こっており、17世紀以前のものも含めて「第六次」が冠されることもある(中国語版「第六次俄土战争」参照)。
この戦争はロシア優位のうちに進み、露暦1791年12月29日(グレゴリオ暦1792年1月9日)にモルダヴィアヤッシーで講和が調印された(ヤッシーの講和)。なお、この戦争と並行してオスマン帝国とオーストリア(神聖ローマ帝国ハプスブルク君主国)とのあいだでもが起こっている。
:(本項で使用する年月日は、特に断りのない場合はユリウス暦のものである。)
== 経過 ==

=== ロシアの黒海進出 ===

ロシア帝国は、1768年から1774年までつづいた対トルコ戦争でオスマン帝国軍を相手に戦いを有利に進め、1774年7月、トルコとの間にキュチュク・カイナルジ条約を結んで黒海沿岸地方への進出を果たした〔土肥(2002)pp.90-91〕。この条約により、クリミア・ハン国に対するオスマン帝国の宗主権は否定され、一方のロシアは黒海での艦隊建造権と商船ボスポラス海峡ダーダネルス海峡の自由航行権を獲得した〔『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)p.437〕〔永田(1988)pp.407-408〕。これは、不凍港をめざして黒海、さらには地中海へと勢力を伸ばそうとするロシアの南下政策にともなう問題、いわゆる「東方問題」を生じさせた〔。
ロシア帝国は、こののちウクライナに近接する黒海北岸地方の開拓を急速に進めていったが、その中心となった人物は女帝エカチェリーナ2世の寵臣で、女帝とは愛人関係にあったグリゴリー・ポチョムキンであった〔。エカチェリーナ2世は、1775年にポチョムキンを「新ロシア(ノヴォロシア)」と名づけた黒海沿岸の県(グベールニヤ)の県知事に任命た。また、同年4月、ロシアはトルコ側が条約に違背したとして、これを口実にクリミア半島の領有を進めた〔〔「新ロシア」とは、現在のヘルソン州にあたる地域であるが、戦後にはムィコラーイウ州オデッサ州の一帯を加えた。なお、この3州は、今日では「南ウクライナ」と総称されることが多い。〕。翌1776年、ポチョムキンは黒海艦隊を編成し、クリミア半島の先端に、防衛拠点として、また将来的な対外進出の基地としてセヴァストポリ軍港建設に着手した。
肥沃ではあるが人口の希薄な「新ロシア」には国内諸県からの逃亡農民の入植が進み、犯罪者の入植もおこなれていた〔。逃亡農民の入植には特に逃亡元の領主からの抗議や反対があったが、入植はそれを押し切るかたちでおこなわれた〔〔1784年にはウクライナにおいても農奴制が導入され、新規移住も禁止されたが、それに先だつ領主農民の数がきわめて少数であったため、農奴制は限定的なものにとどまった。土肥(2002)pp.90-91〕。この地域は、のちに大穀倉地帯として発展することとなる。
クリミア半島は、オスマン帝国の側からすれば対ロシア攻撃の橋頭堡として重大な役割をになってきた要衝であったが、セヴァストポリ要塞建設後は逆に、ロシアの南下政策にとって不可欠の戦略拠点となった〔〔エカチェリーナ2世はポチョムキンに対し、それまでの功績を賞し、帝都サンクトペテルブルクタヴリーダ宮殿を下賜し、「ダヴリーダ公」の称号をあたえた。ダヴリーダ宮殿の建設は1783年にはじまり、6年の歳月をかけて完成している。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「露土戦争 (1787年-1791年)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Russo-Turkish War (1787-92) 」があります。




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